酒井泰三、クロマニヨンズ

 もうずいぶん前、先月1月の初めのことになるが、渋谷AXにクロマニヨンズのライヴを観に行った。会場は1500人以上収容できるキャパらしいが、ぎっしり満員。彼らの演奏やステージ内容に関しては想像どおり、CDで聴いたとおりの印象そのままで、個人的には大好きなファーストアルバムの曲をがっちり聴けたし、まあよかったかなあという気持ちを抱きながら、その日の帰路に着いた。
 ヒロトマーシーの姿を生で自分が観たのはブルーハーツがサード・アルバムを出したときのツアーの山形県民会館でのコンサート以来で、つまり約20年ぶりとかそれぐらいなわけだからもっと感慨があってもよさそうな話なのだが、正直言ってしまえば思いのほか終始冷静でいてしまったなあと思う。それはなぜだろうと考えると、やっぱりロックのコンサートの予定調和というか、「楽しむぜー暴れてやるぜー」みたいな観衆の志向とそれを肯定するバンドのスタンスが合致して幸せな空気として会場を支配するというシチュエーションが、結局俺の肌にはまったく合わんのだなということになるのかなと思う。とりわけ20年前のあの空虚な<バンドブーム>のときにその最も渦中にいながらも最も意識的に違和感を表明していたヒロトマーシーがなあ・・、という複雑な思いもはたらく。「いやいやエンターテイメントというのはそういうものだからいいんだよ」という一見分かったような考え方もあるのかもしれないが、本当にそうだろうか。いやそんなんで本当に満足できるのかと問いたい。ライヴで仲間と暴れて飛び跳ねて汗かいて楽しかったなあで済むなら、なにもそれはロックでなくてもいいだろう、と何のひねりもない批判で申し訳ないが、あえて毒づきたい。 
 それとこれはクロマニヨンズのカラーとはちょっと違ってくる話なのだが、ロックミュージシャンの自意識(キャラクター)押し付けとそれに過剰なまでに共感しようとする多くの聴き手、という構図も見苦しい。例えば銀杏BOYZとかサンボマスターとか俺の世代でも好きという人間が多いが、もういい歳していい加減そういうのは卒業してはどうかと忠告したくなる。
 結局、ロック産業を成り立たせるためには、これらの宗教的要素が不可欠だということになるわけだが、音楽的に言えば、「こんなおんなじ曲をおんなじアレンジで毎回やって、やってるほうも聴いてるほうも飽きないのかねえー」ってことになり、まあそれは宗教的構造があるからこそ成り立つ世界ってことにもなる。
 いや、でもこのあいだのクロマニヨンズのライヴでは「土星にやさしく」、「タリホー」、「あさくらさんしょ」(最後の最後でこの一番いい曲やったのがちょっとグッときた)聴けたから嬉しかったなあ、って今まで書いたことはなんですかという結論なのだが。


 話は変わり、2月2日(土)は国立ノートランクスへライヴを聴きに行った。この日の出演は酒井泰三(g)とヤヒロトモヒロ(per)。自分にとっては今年初の酒井泰三ライヴ。酒井とヤヒロとの共演を聴くのは初めて。
 今回のデュオ演奏にあたりヤヒロから酒井に対しては“ヘヴィー・ブルースを”というリクエストが出ていたそうだ。その言葉どおりの“ヘヴィーなブルース”は酒井のギターの魅力の一側面をもちろんあらわしてもいるわけだが、この日のライヴで出てきたのは狭い意味でのブルースあるいはブルースロック的なものには全く収まらない、ファンキーで、グルーヴィーで、ヘヴィーで、ハードで、ノイジーで、レイジーでという、つまりは酒井泰三らしい音楽が全開の音楽だった。
 テレビやバカな音楽雑誌に出てくるような自称ロックのギタリストには、こういう腰の据わった音を聴かせてくれと言いたくなり、またノイズやフリーミュージック・シーンの演奏家には欠けた“黒さ”に基づいた肉体性が酒井のギターにはある(つまりはブラック・ミュージックから継承されるグルーヴの追求)。また、酒井はいわゆるジャズの人ではないが、師である2人の異才のジャズミュージシャン・近藤等則古澤良治郎譲りと言っていいオリジナルな表現への探究心は、文脈やジャンルはどうあれ、意欲的なリスナーの耳と胸に届く音をつくりだしていると思う。
 自分が酒井泰三の音楽にとあるライヴハウスで偶然出会い、そこからファンになって数年経つ。この期間、もちろん根強いファンはしっかり残っているけど、ほんとにぶっちゃけて言えばファン層はそれほど広がっていない。なんだか今の世間は売れるということに関して音そのものとは関係ない部分での要素の比重が大きいから、簡単ではないことはよく分かる。しかし酒井のギターはもっと本来届いてもいいはずの人たちにもあまりにも届いていない気がする。この状況が非常にもどかしい。