中村とうよう ブラックミュージックとしてのジャズ

 7月21日中村とうよう氏が亡くなったというニュースは驚いた。なんで自殺なのかという空しさに襲われた。僕自身は音楽を聴くにあたってとうよう氏の評論からはそれほど直接的には影響を受けてはいないかなと思う。しかし、とうよう氏の多大な影響のもとで育ったと公言する50代60代ぐらいの人たちからはいまも多くを学んでいる。
 部屋にあった1978年発刊「ブラック・ミュージックとしてのジャズ」最後の章「はじめにリズムありき」をいまさっき読んだ。

「ブラジルやキューバの黒人奴隷がアフリカの伝統をかなり持続できたのにくらべて、アメリカの黒人はアフリカ的なものを、心の奥底に残るかすかな記憶のほかはほとんど完全に取り上げられてしまった。スウィングと呼ばれるリズム感覚は、端的に言えば、そのかすかなアフリカのリズムの記憶をヨーロッパ音楽を培養基としてかろうじて蘇生させ、育成したものである。だからそれは、ブラジル黒人におけるサンバのばあいのように、太い伝統を共有する人たちの広範なコミュニティによって支えられておらず、初めから脆弱な基盤しか持っていなかった。」

 「細い伝統を伝える仲介をしたワーク・ソングやスピリチュアルやブルースを全部包摂して可能な限り伝統を太くして、それを軸に成立したのだったら、ジャズはもっと別なものになったろうが、ジャズがニューオリンズの特殊な状況が生んだ極めて特異な音楽である以上、周囲のものを切り捨てて特異さに徹することをバネにして生まれるしかなかった。だから最初からずうっと、ジャズはアメリカ黒人全体に支えられることなく、農村の崩壊に伴って都市化し中産階級化してゆく一部の黒人と、そして白人たちとを聴衆としてきた。コミューン全体の共同意思に支えられるのでなく、ミュージシャンの個人的な芸術意欲に支えられる音楽であった点で、ジャズは近代ヨーロッパ音楽に近いものだし、だからこそ早くからヨーロッパや日本にも聴衆をもつことができた。アメリカ白人以上にヨーロッパ人が「ホンモノのジャズ」にこだわったっことにも、ジャズのもつ性格が反映されている。」
(「ブラック・ミュージックとしてのジャズ」/中村とうよう P250より抜粋)

 これは書き写しているだけで盛り上がってきた。ジャズが聴きたくなってきた。上に関しては日本の最大のジャズ評論家・油井正一氏の論と基本は同じことを言ってると思うが、とうようさんの場合、「文化的コミュニティの中で伝統的に育まれた民俗的なリズム感覚によって、強固に支えられた大衆音楽」つまり、ジャズ以外のブラック・ミュージックとワールド・ミュージックなどへの知識が深い分、ジャズを徹底的に相対化して、言葉は悪いがジャズを早々に見限ってる部分がある。

「ジャズ発展の歴史は、ジャズが最初から持っていた矛盾を拡大してゆく過程にほかならなかった。つまり、ジャズは、幅広いアフリカ的伝統の上に立つ豊潤なニュアンスの体系を身につけたいという願望と、アーティストの個人芸術として高度化したいという願望と、たがいに相反するふたつの方向を求めつづけてきたのである。チャーリー・パーカーのような天才的な革新者は、アフリカ的伝統に基づくリズムの多様化と、高度なハーモニー感覚との両方を、一度に手に入れたかに見えたが、それは限られた天才の鋭い霊感によって瞬間的に達成できることはあっても、広範なジャズのスタイルとして定着し発展することはない。かえって彼のあとのジャズ界は、だんだん広がる伝統性と芸術性のはざまに落ち込んで混乱していった。ジャズを支えるコミューン的基盤は崩壊し、もっとも大切な拠りどころだったスウィングと呼ばれるリズム感覚さえ共有されなくなりつつあるのが、いまの状態だろう。」

(同上 P250-251より)

 そしてこれが書かれた1978年の時点でのジャズの「最後のあがき」として、マイルス・デイビスオーネット・コールマンのエレクトリック路線を、「独自の大衆音楽の模索」として、とうよう氏は高く評価している。(これを書いていると、ウィントン・マルサリスをとうよう氏が酷評したというのも理屈としてよく理解できる。)

 マガジンでの晩年のとうようズトークのイメージしか自分はリアルタイムではなかったりするので、こうやってあらためて氏の著作をつっこんで読んでたら、特に、氏がずっと唱えていた「大衆音楽」という視点に本当に遅まきながら急激に興味がわいてきた。
 ご冥福をお祈りいたします。