西荻の音や金時に行くために、仕事は強引に切り上げて、中央線に乗る。
今日のステージは酒井泰三氏と津村和彦氏のギター・デュオ。この日記にも再三に渡って書いているエレクトリック・ノマドの泰三さんのギターは言わずもがなだが、津村さんのギターもかなりアグレッシブでハードだということは、アケタ・オーケストラでのすさまじいソロや彼のリーダーアルバムを聴けばよく分かる。したがってこの日のデュオもかなり熱いものになるだろうなあと思っていた。結論として、それは予想に違わないものだった。
まずおもしろかったのが、ステージで並んでいる2人の足元。向かって右側の泰三さんの方には数種類のエフェクターがボンボンボンボンと置かれているのに対し、津村さんの方はなーんにもなくすっきりしている。ギターとシールドとアンプがただつながれている状態だ。と言っても、泰三さんの方のセットもまあわりあいシンプルな方なんだろうが、エフェクターが全くなしという光景はちょっとしたインパクトだった。
楽器演奏経験がない自分が書いても説得力がないが、聴く立場からということで開き直って言えば、どんな機材を使っていようとアコースティックであろうと、結局興味があるのは、その音に個性があるかということと、そしてそれがどれぐらいリアルかということだ。陳腐な言い方だけどほんとにそれしかない。どういうのがリアルかっていう基準は、言うまでもなく年齢や状況などによって変わる。例えば15年前の中学生の頃であれば、ブルーハーツだけが僕にとってはリアルであったし、10年前の大学生の頃は、グランジオルタナと呼ばれるロックがめちゃくちゃリアルに感じられた。で、その後は4つ打ちのテクノに・・・って、まあ別に自分の音楽愛好履歴はどうでもいいのだが、仕事を途中でほっぽらかしてまで、この日音や金時にかけつけたのは、酒井泰三の音楽が最近の自分にとってそれぐらいリアルだからだということを言いたいわけである。
具体的にどういう部分がリアルかというと、ふたつある。ひとつはギターの音質で、それはこの前の「轟音」のときに書いた。そしてもうひとつはリズムとグルーヴなのだが、この日の演奏を聴いていて、僕の頭には、例えばスライの音楽がなぜかパッと思い浮かんだりした。個人的に最近自宅で相当にヘヴィー・ローテーションで「暴動」を流しているのが影響しているのと、泰三氏の10年前のソロ・アルバム「EAT JUNK」でスライのカバーが収録されていたということがそういう発想に結びついたと思われるのだが、なんというかあの「暴動」における混沌としながらも聴いてるうちに異常にひきこまれる音のうねりと同質のものを感じた。直接的に「暴動」のこの曲のこの部分と似ているというよりは、あくまで抽象的で感覚的だが、重なりあってうねりあうグルーヴが非常に通ずるものがあったのだ。泰三氏が言う、細胞膜がシェイクされ、脳がスパークされ、腰をフリフリさせられる音楽の一端をそこに見たとも言える。
さて、この日の演奏の個人的なベストだが、1ステージめのマル「レフト・アローン」での津村さんのギターソロ、そして2ステージめの泰三オリジナル「スナカゼ」での泰三氏の演奏。これらには本当に興奮。
津村さんのソロに関していえば、さきほど書いたシンプルなセットで、本人の佇まい的にもナチュラルに余裕で弾いてるようにみえるのだが、そこから出てくる音に一瞬にして掴まれ持ってかれた。すごく深い音、そして無駄がなく行くべきところに音がまるで自然に動く。ジャズを聴いていて、これがいわゆるスウィングなんだなという瞬間、つまりその音楽と一体化するときってあるが、まさにそれ。津村さんのソロアルバムのアケタさんが書いているライナーノーツによると、津村さんは林栄一氏に大きな影響を受けているそうで、なるほど林さんのアルトを聴いているときの感覚と通ずる持ってかれかたというか、うわ、すげえ、みたいな驚きに近い感覚。
で、泰三さんの「スナカゼ」だが、とにかく中盤から後半にかけてのあの音のうねり、それにつきる。これは勝手な僕の思い込みではあるが、前述したスライ、ジミヘン、エレクトリック・マイルス、今僕がリアルに感じる酒井泰三の音楽の本質を考えるときに、あの時代のその3人の音楽が頭に浮かぶというのは、何かとても重要なことではないだろうか。と、まあそういう意味不明で大袈裟なことを考えてみた。