リアリティ

 最近の朝はよく、隣りで娘が安全用ベットガードを爪でガリガリやる音で目覚める。

 さて、先週の土曜、ジャズ新譜大会にご来場いただいた皆様、ありがとうございました。多くの方にいらしていただいておかげさまで大変盛り上がる会となりました!本当にありがとうございます。
★次は1月24日(土)に、2008年私のジャズお気に入り持ち寄り大会です。


 そして、今週金曜日、いよいよ迫ってきました。酒井泰三エレアコでのノートランクス参戦!

12月26日(金)酒井泰三(g)×吉崎守(b) PM8:00〜 国立ノートランクス

 飛行機に乗って雲の上を飛んでいるのはこれはまさに飛行機に乗って飛んでいるというだけのことで、それはわれわれが創り出そうとしているリアリティではない。単なる現実に過ぎない。自然主義的現実、写実主義的現実ですね。それに対して、船に乗っていて、海面に映る月影を見ていると、自分は月の上を、空を漕ぎわたっているという感覚をふっと、しかし非常にリアルに持ったというのは、全く異質のリアリティです。つまりそれはまさに幻の方の“幻”なのだけれど、しかしそれこそが本当にリアルな真実である。“現”である。 
〜〜(中略)〜〜 
 つまり自分にしかない真実、人が見ればばかばかしいと思うかもしれないが、自分だけには確実にそう感じられる真実というものを人にわかってもらうようにするということが芸術におけるリアリティというものでしょう。だからドラマにおけるリアリティというのは、くりかえしてくどいようですが、自然主義的、写実主義的リアリティではない。これこそが真実だと自分に感じられたものを、もうひとつ人に訴えかけるものとして再創造するということであるだろうと思います。そこでそういうものを能役者が、きわどい瞬間に現出する。<「日本文化のかくれた形」(岩波現代文庫)第二章、木下順二「複式夢幻能をめぐって」より引用>


 数年前自分がジャズにはまった最初のきっかけセロニアス・モンクを聴いたときもそうであったし、板橋文夫のライヴを初めて観たときもそうであったし、いま一番聴いているオーネット・コールマンの音に接しているときもそうであり、もっと言ってしまえば中学生のときにブルーハーツに出会ったときもそうなのだが、そこにまず感じたのはこの音楽ものすごくリアルな感触があるな、リアリティがあるなということであった。
 踏み込んでその「リアリティ」とはなんだろうなと考えるとき、最近読んだ上記の木下の「芸術におけるリアリティ」についての考察は、とても刺激になった。
 “単なる現実”を無批判に、あるいはなんとなく装飾しながらも結局のところ垂れ流しているだけ、という音楽が多すぎるのではないだろうか。しつこいが、なんだかいろんなところで(頭のよさそうな人たちからも)今年評価されてたperfumeはやはり俺にはまったくリアリティを感じられない。木下言うところの、自分にとっての真実をもうひとつ人に訴えかけるものとして再創造しているという切迫感からは全然かけはなれた、「なんか、ねらってるなあ」ぐらいのきわめて現実の枠内・世俗的なものしか感じられないのだ。
 どちらなのか、ここに留まるのか、あちらできわどい瞬間のなかで表現し続けていくのか?深い表現、あるいは本物の表現というのは、どっちから生まれるかといったらそれはすぐに分かるだろう。
 話が長くなったが、つまり、酒井泰三のギターにも自分はものすごくリアリティを感じる、ということである。
 とまあ自分の妄想めいた話はどうでもいいですが、↓の演奏をぜひとも見てください。そして12月26日お会いしましょう。