酔った猫が低い塀を高い塀と間違えて歩いている

 仕事は21時半まで。帰宅して晩飯を食べながらガキの使いを見る。菅ちゃんのIKKOに笑った。
 通勤・帰路において最近もっぱら聴いているのは、カーラ・ブレイやジョルジュ・グランツやマリア・シュナイダーギル・エヴァンス渋谷毅オケやスタン・ケントンやウッディ・ハーマン、あとはエリントンで、つまりビッグ・バンドというかいわゆるラージ・アンサンブルものだ。相変わらず理論はゼロの自分ではあるが、アレンジやハーモニーやヴォイシングといったところに無知なりに耳を集中させることによって、何か新たに音楽の聴き方の幅が広がっているような気もする。ビッグバンド耳といったらいいのだろうか、ジャズを聴く際、作曲・編曲の妙だとか、その音楽全体の響き方や雰囲気だとかそういったところにも意識が及ぶようになっているかも俺、というか。
European Tour 1977
 70年代フリージャズ的な、セーノ!でドシャメシャ・グギャゴギャーー!!と爆走する燃焼系・肉体派の音楽や、あるいは「インプロヴィゼーション!!」とかって鼻息荒く主張するアティテュードってのも嫌いではないが、自分の中ではそれらが相対化されてきているところもある。
 昔ライヴ終了後の片山広明に酔っ払った勢いで話しかけたときに、板橋文夫林栄一を指して彼が語っていた言葉が印象的だった。「(板橋さんや林さんと)一緒にやってるとほんとに楽しいよお!あの人たちは音楽を知っているからあ」。つまりそういうことなんだと思う。例えばカーラ・ブレイの「European Tour 1977」やスタン・ケントンを聴いて興奮している瞬間というのは、“ジャズの即興音楽としての醍醐味”みたいな単純化された狭い表現とは全く違うところに自分の感覚はある。
 「ジャズとはパーカーの登場・ビバップ以降に真の芸術となり・・・」とかあるいはその逆にある「歴史なんか知らなくてもいい。自分なりのジャズを楽しめばいい」という言説。それらを唱えていることが実際に「ジャズはおもしろい」というリアルな実感に繋がってるのかなというのがけっこう疑問で、両者とも実は思考停止・ドグマ的に陥りやすいという点では同じようなもんじゃねえか、とも最近考える。
 音楽に触れるにあたって思考停止というのは、言うまでもなく「聴いていない」ということだ。音源の新しさや旧さに関わらず、いろいろ聴くことでしか結局自分の凝り固まった感覚を解きほぐすことはできないのだというのが、ラージ・アンサンブルものをようやく最近聴き始めた自分の実感だ。