プレース・エバン

 昨日の亀田長男の例の試合のことで言えば、一番不快に感じたのは、「ボクシングの内容のことは正直よく分からないけど、あの亀田家の親子愛・家族愛には胸が熱くなった」というたぐいの一般人の感想だ。やくみつるが「安っぽいドラマ」と称していたが、その通り。あんなのは極めて図式的で底の浅い美談の押し付けにしか自分は思えない。しかし、どうもそれに反応して「感動」してしまい、「内容はまああれだったけど、感動したんだからいいじゃん」という人たちも多いみたい。メディアの感情操作ってすごい。北朝鮮とかのことをみんなぜったい笑ってられないと思うよ。気持ち悪いわ。
 話まったく変わり、8月から新しい仕事場に通っている。
 電車に乗って職場まではドア・トゥー・ドアで約一時間。以前の通勤時間にくらべれば15分ほど長くはなった。しかしipodでアルバム約一枚分を聴けるということで逆にまあいいかなとも思う。音楽に没頭できる。書いてて思い出したが、昔深夜枠の頃大好きで見てたテレビ番組「マネーの虎」の中で高橋がなり社長が、「朝ウォークマンを聴きながら通勤する社員はぜったい仕事ができないやつと思ったほうがいいですよ。」と断言してたことがあった。いかがなもんだろう。自分の実感としては、その言葉はかなり真理だと思う。その言葉の意味するところに好感を持つかは別として。
 音楽の本質は逃避だ。社会や既成概念からの逃避。少なくとも自分にとってはそう。音楽を聴いて心を揺り動かされることは同時に個の奥深い部分まで探究していることであり、それは社会や生活や既成の概念に適応することと本質的にに矛盾・敵対する。(「音楽」の部分は他のカルチャーや表現でも当てはめられるのだろう。)
 前者の「個」のほうに傾きすぎれば「レールを踏み外しちゃった人、やばい人」となり、後者の「適応」のほうにすっぽり収まれば、「あの人、つまんなくなっちゃったねぇ」なんて言われる。みんな結局のところ前者と後者の実は微妙なラインの上を常に揺らぎながら歩いてるのかもしれない。
プレース・エバン(JMCK1014)
 そんなことをウダウダ考えてしまうのは、明田川荘之の「プレース・エバン(JMCK1014)」のピアノソロ「りぶるブルース」を聴いて、その素晴らしさにほんとグッときてしまったからだろうか。キース・ジャレット聴くのもいいけどさ、アケタさんも聴こうよ。聴いてくれよ。そんなことも言ってみたくなる。
 ついでに、ジャズという音楽っつうのは、“変態と男気”、それがなければ成り立たないのです。そんなことも言ってみたくなる。