村田、TAJIRI、その他

 仕事。帰宅は7時過ぎ。夕飯を食べた後、9時から「渡る世間は鬼ばかり」を見る。生真面目で引っ込み思案なむさい40過ぎの独身男を演じる村田雄浩の演技が相変わらずいいなあ好きだなあなんて眺めていたら、ハタと気がついた。この村田の演技とハッスルのTAJIRIのキャラって8割ぐらいかぶっている。
 今週に入ってから、いろいろと自分が問われることが多い。不安な精神状態の通勤・帰宅の電車で聴く音楽は、極端な方向性を持っているものばかりだ。いや不安でなくったって、10何年以上基本的にはイっちゃってるというかクセがありすぎる臭い音楽にしか反応しない自分の幼稚な感性なのだが、追い込まれ余裕がないときはその方向性が分かりやすく表に出てくる。アルバート・アイラーの「Spiritual Unity」とセロニアス・モンクThelonious Himself」、高柳昌行A Jazzy Profile Of Jojo」、ウォーン・マーシュ「ウォーン・マーシュ (紙ジャケット仕様)」。この辺りにはここ数日だいぶ助けられた。
 アイラーとモンク。一目瞭然の両極端な音像。例えば一分間に鳴らされる音の数と量で考えれば、アイラーはモンクのもう何十倍だろうって話だ。しかし流儀は違っても、ラディカルな形成感ということで言えば両者とも圧倒的。そしてそれがダイレクトに心を揺さぶる。こういうの聴くと、モダンがどうしたこうしたとか前衛がああだこうだなんて言う内輪受け的世界がまったく馬鹿らしくなってくる。大事なのは音を聴いたときに自分が猛烈に感動したかどうかであり、それが大したないくせに言葉だけで何かを構築していくなんてのは、全く不毛だ。
 高柳やウォーン・マーシュのクール派聴くときって、変な言い方だが、なんかジャズ聴いてるなって感じがする。ロック的な煽るギターソロやホンカー的激しいブロウやファンキーを排除した、ジャズ内の奥深くをえぐりながら掘り下げていくような鋭敏な感覚。言ってることは矛盾するのだが、ジャズの中でも特殊で特異な表現かもな、とも思う。