植木等とモカンボセッション

 うっかり忘れていて後半の方からようやく見れた今日の「ウチくる!?」。ゲストが谷啓で、紹介される街が神田だというのだから、きっとおもしろかっただろうな・・と後悔しながら鑑賞していたのだが、最後での植木等の登場でそんな気分もぶっとんだ。
 植木はもう容姿も話し方もひと目見てかなり老いたなという印象。「僕は昔は入院するぐらい必死で努力して毎日頑張ったけど、80になってしまってはもうそれもできないんだ。若い人たち、みんな頑張るんだよ」と、人生の締めくくりモードといった感じで実直に訥々と話している姿になにか強烈に感動して、日曜の昼間から泣きそうになった。
 戦後の植木らクレイジーキャッツ人脈と日本のモダン・ジャズとの関わりはやはり興味がある。
 1950年代前半に日本のビバップの先駆けとして、秋吉敏子とともに日本の先鋭的なジャズシーンを牽引し、1955年に31歳の若さ(あ、俺と同じ歳・・)で自殺してしまった守安祥太郎というジャズピアニスト。彼のもとでナベサダ宮沢昭が育ったという事実からも、もし守安がいなければ日本のその後のジャズシーンはまた全然違う方向に進んでいたかもしれないという、歴史的にもものすごく重要な位置にいるジャズマンだ。彼が残した唯一の録音で「モカンボセッション」というアルバムがある(数年前にCD化されたけど、現在では製造中止。)。1954年7月27日に横浜のライヴハウスモカンボ」で行なわれたジャズ・セッションを客が録音していた音源を作品化したものなので(しかも当時の録音技術で)、音質などは決して良いとは言えないのだが、前述した秋吉、宮沢、渡辺貞夫の若き日の演奏、そして、ハイレベルで複雑なテクニックと前のめりな初期衝動が同居するまさに本物のビバップを体現する守安のピアノが聴けるこの盤は、必聴だと思う。
 クレイジーキャッツ結成以前の植木やハナ肇がこの「モカンボ・セッション」に関わっていたという話は有名・・・かどうかは知らない。というか自分も守安の伝記「そして、風が走りぬけて行った―天才ジャズピアニスト・守安祥太郎の生涯」を読んで初めて知った。というわけでその辺りの事情を「そして〜」から抜粋してみる。

 伊勢佐木町通りから地下に降りた入口と、ビル裏の従業員専用口では、通常のジャム・セッションではみられない光景が繰り広げられていた。
 会費を徴収していたのである。一人500円。大和の米軍キャンプの仕事が終わってから、駆けつけてきた渡辺貞夫は、ジャズ喫茶「コンボ」のコーヒー代40円を遥かにしのぐ大枚を取り立てられた。
そして、風が走りぬけて行った―天才ジャズピアニスト・守安祥太郎の生涯
 そもそもジャム・セッションは、その性格上、入場料を取らない。今回はワケがあった。ドラムの清水閏が6ヶ月ぶりに娑婆に出てきた、その復帰カンパである。名ドラマーのカムバックを仲間たちが祝福した結果だった。
 入口の担当は「モカンボ」の専属トリオ「ニュー・サウンズ」のリーダーで、ギターの植木等と、戦前から活躍しているジャズ界の長老、井出忠。言うまでもないが、植木は後に「クレイジーキャッツ」の一員となり、「無責任シリーズ」で一世を風靡するあの植木等である。
 世話人ハナ肇。彼は、ジャズ喫茶「コンボ」の常連客の中でも屈強な奴を選りすぐり、入口に張り付かせた。木戸銭破り対策である。払わずにすりぬけようとする不逞の輩には、アメリカ人、日本人かまわずベラベラとまくし立て、一人残らず取り立てに成功。かつ強靭な体を見せつけ、“土地のゴロツキ”が入ってこないようにした。
(中略)
 会計係には、植木を配した。彼はまったくの下戸で、金勘定を間違わないだろう、というハナの読みである。それくらいミュージシャンには飲み助が多かった。
植木にしても、“僕だって聴きたい”気持ちでいっぱいだが、ハナとは十代からの知り合いで、真面目な性格だけに断れなかった。
 そもそも植木は歌手志望で、やがてギタリストになり、この「モカンボ」のころは、白人ギターのタル・ファロとバニー・ケッセルのレコードばかり聴いていた。どちらも、黒人天才ギタリスト、チャーリー・クリスチャンの系統を継いだモダンギターの俊英である。
植木はモダンジャズをめざしていたからこそ、このジャムセッションにも参加したのだった。
 新しい音楽を模索する優れたギタリストに、高柳昌行がいる。彼もその夜の重要なメンバーだから、植木にすれば、その最先端のプレイを聴きたかったのである。
 一方のハナ肇は、後に作曲家となる浜口庫之助の「アフロ・キューバンボーイズ」のジュニアバンドのドラマーで、意外にも秋吉敏子渡辺貞夫らと共演するなどのモダン派だった。面倒見のよさから世話人の一人となり、その夜の運営を仕切ることになったのである。ジャズ喫茶「コンボ」でも、ハナは店に着くかなり前からその大きな声でやってくるのが知れ、いっぽう守安はいつのまにか店にいて、いつのまにか風のようにいなくなっているという、両極端の常連だった。
 (このセッションにおいて)ハナは世話人としてのリーダーであり、守安はミュージシャンとしてのリーダーだった。
(植田紗加栄・著「そして、」p27〜29から抜粋。)


 ちなみに、上記に名前出た主要な人を生誕順で並べると、守安は24年生まれ、植木は27年生まれ、秋吉は29年生まれ、ハナ肇は30年生まれ、高柳は32年生まれでナベサダは33年生まれ。みんな、当時20代前半から30ぐらいということになる。
 例えば植木等高柳昌行なんて、現在ではよっぽど意識的な見方をしなければまず永遠に繋がらないであろうラインだ。いや、その当時は大衆音楽といえば基本的にジャズだったのだし、ジャズと歌謡が密接に結びついていた時代だから別に不思議ではないでしょうという考えもあるだろうし、あるいは、植木等とかあの時代の歌手や芸能人はそういうジャズなんかを基本に持っているからおもしろいんだよなんて意見もあるだろう。僕なんかは、商業的な芸能・エンターテイメント方面とアンダーグラウンドなジャズとどうしてどういうふうに分かれて行ったのかその過程に興味がある。
 その辺りはいろいろと探ればぜったいおもしろいと思う。模索・試行しながら何かができあがっていく時代のものすごい勢いで昇りつめていくエネルギーがそこにあるだろうから。そこでいろいろと振り落とされたり、見落とされたりしたものや、融合・合流をしておもしろい表現として結実したものなどいろいろと見つかるような気もする。