杳子

 昨夜の職場での仮眠時間はなかなか寝つけなかったので、家から持参した文庫本をカバンから取り出す。古井由吉「杳子」。何をいまさらだがこの小説を読むのは初めて。
 古井の文章の精緻さに一瞬気圧されながらも、気が付けばその独特な時間の流れを持った世界にどっぷりはまっている。深夜ゆえのちょっとしたハイテンション状態も影響したのだろう、一気に最後まで読みきった。
杳子・妻隠(つまごみ) (新潮文庫)
 心に病を持つ主人公・杳子の描写を読んでいると、とても苦しくなる。それは、自分が無意識に持ち合わせ、それに基づき社会でふるまっているところの“常識”や“世の中に対する普通の考え方・見え方”が(少なくともこの小説に接しているあいだは)ものすごく揺らいでしまうからだ。“あちら側”と“こちら側”を分ける一見くっきりとした境、そしてそれを保障する心のバランスなんて、実は大して信頼できるものではないのかもしれない、そんな風に思えてくる。
 こういうことを書いていると、村上春樹なんかのことがやはり頭に浮かんでくるのだが、村上のような感傷が、古井のこの小説にはない。あるいは、村上春樹が抽象的に(悪い言い方をすれば単に意味深に)触れるに終わり、その中に踏み入らない“あちら側”を、ここでの古井由吉は積極的にえぐっている(まあ30年前だが)。
 小説家の個性・方法論の違いと言えばそれまでだし、自分は2人とも好きなんだけど、最近の村上春樹にもの足りない部分がこの「杳子」を読むことではっきり分かったという、なんだか全く的外れなことを今思ってしまった次第。