ラブリーでの大西順子トリオ①

 17年前の中学2年生の春ブルーハーツに出会って以来、パンクな音楽、自分に刺激を与えてくれる音楽を常に探求してきた。思いっきり観念的でこっ恥ずかしい言い方をすれば、それは自分の生き方の根幹でありメインテーマである(あるいは、そうなりたい・したい)。安心を買うために癒しやくつろぎを音楽に求めだしたら、9割がた自分は死んだということになる。また、枠から決して外に出ようとしないオタク的・趣味的スタンスになっても、俺はもう終わりだなと思う。
 90年代の日本のジャズを代表するピアニスト・大西順子。彼女が日本のジャズ・シーンを席巻していた当時、自分は10代後半から20代前半だった。なるべく尖がった音楽をという当時の自分の感性のアンテナには、彼女の音楽は引っかからなかった。一度も聴かなかった。いや、「彼女の」というよりは、ジャズ自体ほとんど興味がなかった。
 聴かず嫌い・不勉強と言われればそれまでだが、“バーでカクテルを飲むためのBGM・大人のオシャレな音楽・ジャズ”、あるいは“テクニックと理論至上主義の音楽・ジャズ”、そんな世間に流布するステレオ・タイプなイメージに自分の耳と目と頭は曇らされていたとも言える。実際、大西順子の作品の例えばジャケットから受けるいかにもコンサバな印象なんて、自分が拠り所とするパンクという思想からはあまりに遠すぎた。
 彼女が長い休業状態から復帰したというニュースを3〜4ヶ月前ぐらいに聞いたときにも驚きや感慨は特に覚えなかった。ただ10年前と違って、ジャズに対する偏見が自分の中でなくなっていたので、というか、最も好きな音楽=ジャズです、と言い切れる自分の内面の変化があったので、じゃあいい機会だから大西順子聴いてみようかなあ、そんな感じで「WOW」、「クルージン」、「ピアノ・クインテット・スイート」と片っぱしから買って、聴いた。
 アドリブが絶頂を向かえたときの、力強く跳ねかつもの凄い勢いで畳み掛ける彼女のピアノ。それをスピーカーの前で聴く自分はといえば、ググッと体が前にのめり出すあの感覚といったらいいだろうか、あるいは体が硬直したと思ったらブルッと震えるあの感覚といったらいいだろうか。とにかく、終始そんな感じ。スウィング感、グルーヴ感、いろんな呼び方はあるかと思うが、自分のジャズ的好みから言うと、あ、絶対好きだこの音は、と思った。

 前段が長くなったが、昨日20日、大西順子トリオのライヴを聴きに行った。有休をとって名古屋ラブリーまで。
 向こうでいつもお世話になる友人夫妻にチケットを取ってもらい、当日に店で合流。6時開場で8時開演だが、7時過ぎにはもう立ち見も出るかという混み具合。特に大した宣伝もない東京でのライヴも、即ソールドアウトという噂だったから予想はしていたが、それでも驚いた。まだ彼女への期待は大きいのだろう。
 話がずれるが、この日新幹線で名古屋に向かう途中、ラブリーに備えてジャズは聴かないでおこう、と、ipodでは「聖☆おじさん」をリピートしていた。

 ・・・続く。