俗人の音楽観

 俗人以外の何者でもない自分にとって、一連の若貴騒動というか花田家内紛騒動は毎日のもっとも気になる話題であり、特に昨日コンビニで立ち読みした週刊文春貴乃花の手記なんて、内容のぶっちゃけ具合に一種の感動すら覚えた。プレイズ・ファッツ・ウォーラー
 ついでに言うと、文春読む前にその隣りにあった週刊新潮の「靖国参拝」特集に最初は目を通していたのだが、これがひどかった。夜郎自大とはこういうことだなとよく分かる自称作家や評論家の空虚でヒステリックな言説ばかり。「国のために命を捧げた人たちをリスペクトして何が悪いの」的なこと、本気な顔でよく言えるなあ、そんなやつが身近にいたら気持ち悪いよ。で、あまりにつまらないから文春の方の貴乃花の手記を読み始めたら、思いがけず心を打たれたというわけだ。やはりリアリズムだな、重要なのは。
 と、どうでもいいことを書いてるが、通勤・帰宅時はアマゾンから届いた高瀬アキの「プレイズ・ファッツ・ウォーラー」を聴いていた。取り上げた題材の妙ということではなく、ウォーラーの凄さを見事に捉えたというところにこの傑作の本質がある。ハーレム・ストライド・ジャズがいかにスリリングで情熱的で豊穣な音楽であるかということが、そしてこの芸術性の高さが後のジャズの流れをいかに規定したのかということが、高瀬の奔放な演奏から伝わる。

今年に入ってFATS WALLERが私の身辺をほがらかに飛び廻り始め、じいっと耳を澄ましていると、あの笑顔とユーモアに溢れる音楽の中からもっと何か深い精神性が立ち現れてきたように思う。(高瀬アキ、ライナーより)


 話変わって、一昨日ブランドン・ロス聴いてるときもなんだか思ったが、聴き手が音楽に一体化するというのは、結局どれぐらい目の前にある音を味わいつくしているか、ということに尽きるのではないかと思う。本で仕入れた知識、あるいはライヴ通い、そういったものも重要かもしれないが、やはり腰をすえてじっくりまじめに量を聴いてる人の説得力にはかなわないなと実感するときがよくある。
 音楽の業界とはまったく関係ない仕事なのに、しかも同年代の勤め人なんかと比べたりすると、自分は随分と音楽を聴く環境に恵まれているなあ周りに許してもらってるなあと思う。しかし、やはり日中仕事をして家帰って聴ける量って限られる。労働力を資本家に売ることで生活している労働者階級の限界といえばそれまでだが、かといって時間ばかりあった10年前の学生時代には今ほど音楽にはまってなかったからなあ、不思議だ。話がわけ分かんなくなったが、耳を傾けじっと聴くということしか音楽に近づく手段はないのだなというのが、イチ労働者の音楽ファンとしての今の見解。遠回りなようだが、それが一番の近い道だ。
 そういう点で、「音楽をつくる」という狭い意味だけではなく、「聴き方」というスタンスにおいても、聴き手が自分の周辺にある音楽を自身のセンスで再編集(再解釈)して主体的に新しい価値をつくっていくことがこれからの音楽の未来のかたちだという「音楽未来形―デジタル時代の音楽文化のゆくえ」の結論は、自分にはけっこうな距離感がある。リアルではない。「聴く」という行為がどうにも軽くなってないか?そんな風にも思える、誤読かもしれないが。
 この感覚は、自分がここ数年熱心に聴いてるのがジャズだからということと密接に関係しているかもしれない。というか、極めて暴論になるが、今の音楽シーンにはそんなストイックなジャズ的聴き方があまりに足りなすぎるとさえ自分は思っている。