趣味少ない、片山広明トリオ

今年に入ってからの日記、内容が音楽のこと(あとたまにプロレスのこと)ばかりに限定されていてそれはそれでまあカラーということなんだが、自分はほんとそれぐらいしか興味がないんだなあということにあらためて気づき、なんだか笑える。


たとえばの話、音楽好きの人で映画もすごく好きって人けっこう多いと思うけど、実際そういう人と会話してるとき、音楽まではOKだが映画の話になるとこちらが全くついていけなくてなんてケース、多々ある。そもそも俺最近見た映画、正月にテレビでやってた「鉄道員(ぽっぽや)」だもんな。それだって、うわあなんじゃこりゃつまんねえやなんて文句言いながら実家で酒飲みながら適当に見ていたんだから、まともな鑑賞とはとてもいえない。


音楽聴くこと以外は切り捨てていると言ったら聞こえは多少良いが、30になってこのスタンスを続けていると危ない局面にもたまにぶつかる。妻の実家に遊びに行ってお父さんお母さんと話してるときは特にやばくて、共通の話題がなくてほんと大変、酒がまわらなければもうシーンと黙ってる。「ジャズ批評の今月号は・・」とか「板橋文夫の再発買いました」なんて話は当然ながらできない。「天龍いいっすよね」とかも。


多分に精神論的・観念論的傾向が強い自分は、ひとつのことをストイックに続ければきっと何かが見えてくるのだという考えにこだわってしまい、特に音楽を聴くことについてはそれを実践したいと常に思ってたりもする。もっとも音楽のなかでもいろんなジャンルがあって、それらも絶対聴いたほうがいいわけで、その点で自分がものすごく偏っているということは否定できない。ジャズ、ロック、テクノ、ヒップホップ、エレクトロニカ、R&B、そんなところだもんな、聴いてるの。まったく足りないよ。


んで、ジャンルもそうだけど質の面でも自分は「良いもの」と評価されてるものばかりを厳選して聴いてるところがあって、ほんとはそれもダメなんだろうなあと最近思う。「糞みたいなのもいっぱい聴け。糞が分からないとほんとに良いものって分からないんだ。」ということをこの前ある人が言ってて、けっこうそれにグサッときた。痛いところつかれたなあと。「俺は、たくさんの糞に出す金も時間もない労働者階級なんだ」とか言ってみても単なる言い訳だが、糞にまで手を伸ばせば、ほんと自分の非社会性状態がますます強化されてしまうだろう。


と、こんな意味不明なことをウダウダ書いてる暇があったら、とにかく音聴けよという話ではあるが。