話は変わるようで、実際は微妙につながっているかもしれないが、ギタリストの酒井泰三さんが参加しているということで今日聴きに行った渋谷のセッションについて。ドラムのつの犬さん、テューバの高岡さん、それと自分は初めて知ったヒップホップのDJやラップの人、ヒューマンビートボックスの人、ギターの人、パーカッションの人などなどが即興演奏・パフォーマンスを行なうという企画。泰三さんはこのイベントには初参加だということ。

「楽器を良く演奏出来る」という言葉はこのようにいくらでも相対的な内容を持つ事が出来るのだが、楽器を演奏するということがやはり一種の特殊技能である以上、機械的な運動の訓練は必要である。
(中略)
いわゆる「基礎テクニック」の全然ないド素人だって、一晩霊感を感じてギャボギャボに吹くことはできるだろう(特にフリーフォームの場合は。)それが素晴らしいものである可能性は大いにある。
ただ、もし彼がそれで生活したいと思うのなら、次の日も次の週も次の月も次の年も吹き続ける事が出来なければならない。その間、自分自身と共演者と聴き手に一応の満足を与え続けながらだ。これは決して一時の霊感や興奮や蛮勇で出来る事ではない。自分の中の可能性を音にして続ける、というのはやはり冷静な技術の作業なのである。(山下洋輔・風雲ジャズ帖)

「フリー」・インプロヴィゼーションと言ってもにそこには決まりごとと制限が多い。①まず「音楽」をやるという表現の大前提がある。当然その「音楽」は、演奏者の各々の出自によってかなりの部分あらかじめ規定されている。②次に演奏者の音楽的技術・力量・センスの水準。その人が音楽にどれだけ真剣に入り込んでいるかということが如実に分ってしまい、演奏者間でその温度差があまりに大きい場合は、茶番で終わるかガチンコでどちらかが潰れてしまうこととなる。つまりまともな表現として成り立たない。③そして最後にそれを聴く人間が存在しているということ。音楽の種類は違うが、駅前でサクラを集めてアコギをジャカジャカ鳴らして悦に入った青春フォークに感じるのと同質の自己満足的世界に付き合うには、僕はもうおっさんすぎるし、あるいはそこまで老けこんでいない。


常に制限された自分の感性を一瞬でも解放してくれるのは、「音楽は自由を与える」という観念ではなく、実際の物質としての音でしかありえない。その音をつくりだす音楽家に求められる表現のハードルはやはり高くあるべきだ。


今日の酒井泰三のギター、ものすごく生々しい音だった。言い訳やギミックなしのゴツゴツした裸の表現。それに聴き手が感化されるかどうかは、その聴き手のそれこそ自由だとしても、僕は彼がこの音を出し続ける限りは間違いなく支持していく。