ブランドン・ロスがギターで参加しているカサンドラ・ウィルソンのアルバム「New Moon Daughter」(1995年)を帰宅時のHMVで一昨日に購入。恥ずかしながら、M−BASEやブルックリン派なんていう言葉をつい最近知った自分としては、この歌手がどんな出自なのかということも当然に知らなかった。今更こんなメジャーな人のしかも10年前の作品をどうこう言うのもあれだが、声すごく良くてびっくりした。ノラ・ジョーンズのアルバムも手がけたクレイグ・ストリートがプロデュースした音もぬるくなく、アーシーな感触は自分好みだ。


通勤中に聴いていた「Mother Tongue」は、アルト・サックスのRudresh Mahanthappaのリーダー作品。スティーブ・コールマンのところでも演奏していたピアニスト・ヴィジェイ・アイヤーもこのアコースティック・カルテットには参加している。この辺の人たちが、M−BASEの正統的継承者と言えるのかな?よく分からんが。「ジャズ批評」なんかでも大絶賛されているアイヤーのピアノのトーンは暗い。そして音のうねり方がかなり異質でとても印象に残る。同じ日に買ったベルギーのピアニスト・イヴァン・パドゥア・トリオがすごく王道に聴こえたんで、アイヤーの演奏はとても刺激的だった。


家では油井さんの「ジャズの歴史物語」を読みすすめる。

「スイング」にしろ「バップ」にしろ「フリー」にしろ、こうした形容詞による分類は、コミュニケーションを簡便にするためにつくられたもので、ジャズの本質にはかかわりのないものである。どんなに心に銘じておいてもファンはしばしばそれを忘れ去る。
今日の時点でいえば多少とも「フリー」がからねば新しいミュージシャンではない・・・・という考えに傾く。その結果は、「フリーらしいことをやるニセモノ」を片っ端からかつぎあげ、妙な音を出しさえすれば「革新のにない手」のように誤認する。これはジャズ・ファンが陥ってきた大きなワナなのだ。

正論だが、油井さんが書くと説得力がある。


話まったく変わるが、今日、紳助の復帰番組を見た。トークの中で紳助が、「ヨン様の笑顔、気持ち悪いねん」と言ってたが、あそこでは周りの芸人が「いや、紳助さんの謝罪会見の顔の方がやばかったですよ!」と突っ込まなければいけなかったはずだ。