この日は松風鉱一カルテット。僕は去年の夏にやはりこのノートラでこのグループを一度聴いている。
パーソネルは松風鉱一(sax他)、加藤崇之(g)、水谷浩章(b)、外山明(ds)。松風さんはいわゆるマルチリード・プレイヤーで、この日もテナー、アルト、バスクラ、フルートなどを曲によって吹き分けていた。このグループが演奏する曲は、基本的に松風さんのオリジナル楽曲。フリー・ジャズではない。表現として正しいかどうかは分からないが、ある意味オーセンティックなジャズなのかな?それはバップをやってるとかそう意味ではなく、稚拙な例えで言えば、フリージャズに対してのボビー・ハッチャーソンなんかの「新主流派」とかそんな位置のような。わけ分かんないっすね。


このメンバーで演奏するようになってからだいぶ年月が経っているのだろうと推測できる、息の合い具合とバランスのよさのおかげで聴いているこちらの集中力も途切れることがまったくない。曲もすごいいいし。

クールで憂いのある旋律のテーマが提示されたのち、展開されるフロント2人のアドリブ。その佇まいから受ける印象もあるのだろう、どこかひょうひょうとした松風さんのソロだが、技術と真摯な態度に裏打ちされた音は確実に聴き手の耳を持っていく。そして加藤さんのギター。「変態」と表現されることもあるが、エフェクトによって構築された予想の範疇を超えた音のカラフルさは、もう美しいとしか言いようがない。それはアコースティックを基調とした松風カルテットの秩序に音響派的異物感を与えてもいる。ときおり泣きだとか熱さが全開になったりもするから、またたまらない。
さて、秩序ということで言えば水谷さんのベースがこのカルテットのビートを終始キープしているわけだが、同時にこの人のベースがこのグループの美学も支えているんだなと思わせる、なんつうんだろう、洗練?された演奏にはとても聴き入った。
もう1人のリズム隊外山さん。彼のドラムは、フリー野放しの曲よりは、あるいは世界観のガチガチに定まった曲よりは、この松風さんのような枠は明確に設けるが広くスペースをつくってある楽曲でこそめちゃくちゃに生きるんだなということがよく分かるこの日の演奏だった。それってすごくジャズ的だなあ。


ええと、しつこく「新主流派」云々についてだけど、その用語は60年代後半におけるジャズを巡る状況が強引に日本のジャズ評論界につくらせたものだ。この松風カルテットを聴いてその言葉を思い出したということは、じゃあ現在の日本のジャズの状況って?という話に自分的には当然なるわけで、それは例えば渋さ知らズとか菊地成孔さんとか寺島さんとかそういった世界との比較という話になってくるのだろう。と、いつもながらのわけ分かんない妄想的な戯言が出たところで終わりにしたい。とにかく松風グループ、かっこいいジャズです。