さてちょっと間が空いたが、3日前の日記の続き。アケタ・トリオのライヴは18時過ぎに終わり、店を出た後は、妻と合流して、西荻のよく分かんないタイ料理屋で夕飯。そして、ライヴハウスCLOPCLOPへ。
この夜のステージは酒井泰三&つの犬のデュオ。
両者それぞれの音にこれまで接したことがある人間なら、この2人、絶対相性いいだろうなあ燃えるだろうなあと予想できるだろう。そういう意味で、今まで実現しなかったことがもったいなかった組み合わせだ。
僕の主観だが、ミュージシャンとしての表現のベクトルも2人は似ていると思う。それは肉体的、本能的、快楽的で・・・とよく分からんが、そういった直接的な感覚を重視する姿勢とでも言ったらいいだろうか。「直接的な感覚」と言っても、実際にそれを音として具現化するのは容易じゃないということは言うまでもなく、往々にして垂れ流し的なもので終わったり、あらかじめあったルーティーンをなぞるもので終わったりすることだって多い。(やっかいなことに、表現の送り手も受け手も無自覚にその状態に充足してしまうときも多々あるのだ。)
と、妄想的論説はこれぐらいにして、ライヴの感想だが、こちらが考えていた以上にこの2人の音はばっちりはまっていた。
「彼の頭の中では常に、100万のコンガによるポリリズムが鳴り響いていたに違いない」、最近読んだチャーリー・パーカーについて書かれたある評論のなかのそんな一節を、この日の音を聴きながら思い出した瞬間があった。リズムによって引き出されるアーティストの予想を超えたエネルギー。トニー・ウィリアムスのドラムとマイルスとの出会いが、やがて大きな流れとしてエレクトリック・マイルスにつながり(ワイト島DVDすごいっす!)、あるいはまた、バンド・オブ・ジプシーズとの融合がジミヘンを「もう今後これ以上のギタリストは出ない」と後世まで言わしめる存在に押し上げたという音楽の史実を思い出してみてもいい。いつもいつもながら大袈裟な例えを出してあれだけど、酒井泰三のリズムに対する執着というのは、そんなところと本質的に続いているものなのだと、あえて言ってみたい。
つの犬さんの地響きと疾走のグルーヴに反応することで、泰三さんのギターが鳴らした突き抜けてしかし思いっきりこちらの感覚をつかむトーンとフレーズ。客席に座ったそれぞれの聴き手がそれを耳に捕らえたとき、ググッと会場全体が音の中に入り込む瞬間がそこに見えた。
帰りの中央線の中で妻に向かって、「何だろうね、きたよねぇ、すごかったよねぇ!」と阿呆みたいに繰り返す自分。何が良かったんだろうか、何が自分の感覚を捕らえたんだろうか、それを言語化することは難しい。しかし、それは何だったのか?と、今このように悶々と考えることができるということは、やはり音楽がもたらす幸せのひとつだと思う。