ジャズ的価値とは?

突然だが、ジャズ喫茶のおやじ・後藤雅洋さんのHP上での連載、「ジャズを聴くことについての原理的考察」第16回から勝手に引用。

「良い音楽は誰にでも分かるはず」などという凡庸な俗説をタテにして、「ホット・ファイヴ」など古臭いとか、モンクの音楽は楽しめないなどとホザいたら、いいかげんにしろよと言いたくなるのは当たり前だ。彼らには、ジャズの価値について発言する資格はない(というか、そもそも彼らは「ジャズ的価値」などというものを求めてはいないのだ)。彼らに許された権利は「大衆音楽としては」という断り書き付きでの発言なのである。(中略)
 同じようなジャンルの誤認はジャズ・ファンの側にも言えて、売れまくってるポップスを「ヘタクソだ」「個性が無い」などと言って否定するのも的外れなのだ。ポップスはジャズ的視点で作られてもいないし、聴かれてもいない。一見柔軟でリベラルにみえるジャンル越境的思考法が、思わぬほころびを見せるのがこういう瞬間だ。ヨーロッパの研究者がアフリカ原住民の音楽に接したときのように、われわれは今一度他者の価値観に謙虚にならなければいけない。
 多くのポップスは、聴き手の各自が各々の嗜好に従って良否の判断を下す直接民主制でまったく問題はないが、ジャズに対する価値判断は、音楽ファンといえどもジャズ的表現の価値について熟知したジャズ・ファンにそれを任せる、間接民主制であるべきなのだ。

上記の後藤さんの論説を踏まえたうえで、再び「おかまいなしのジャズ日記」でも一瞬書いた「JAZZ NEXT STANDARD (500 CLUB JAZZ CLASSICS) 監修:小川充」のことだが、やはりこの本は画期的だ。イントロダクションでの監修者・小川充さんの力の入った文章を読めば分かるけど、ベースとして「クラブ・ジャズ」的聴き方のいい部分悪い部分に非常に自覚的だという点、あるいは「ジャズ」と「クラブ・ジャズ」の価値観の断絶について意識的であるという点が特に重要だと思う。
現状で「クラブ・ジャズ」というジャンルが後藤さん述べるところの「ジャズ的価値」を求めているかと言ったら、それはかなり否定的であって、そういう意味で今の「クラブ・ジャズ」はポップス側に属すると僕は認識している。
一部で「おやじ系ジャズ」と一方的にそして何だか一緒くたに揶揄されたりしてるかもしれないが、「ジャズ的価値」、それははっきりとある。何かと問われれば答えに全く窮してしまうのが情けないが、例えばモンクやパーカーやマイルスを聴いているあいだ自分の内面に起こる大きな変化のことだ、とでも言ったらいいだろうか・・・。だめだこりゃ、油井さんの「ジャズの歴史物語」読もう・・・。