月曜に西荻の「音や金時」で酒井泰三(g)&津上研太(as)のライヴを聴いて考えたのは、ブルースのことで、それは音階のブルーノートだとか12小節の決まったコード進行だとかのことをもちろん考えたわけではなく、もっと抽象的なこと。耳から入って脳を通して自分の体が反応するブルースという感覚、言い方を変えれば、自分がブルースのどこに興奮するのか、あるいは自分のブルースの定義というか。それは当然簡単に結論が出る話でもなくて、まして僕はブルースにもブルースロックについても満足な知識がない。
ただ例えば最近聴いてるものでいえば、バド・パウエルの凄いピアノを聴いたときの、そこにある重く混沌として熱い感覚はブルースだと思うし、スライの「暴動」の分けのわからないドゴンドゴングウォングウォンしたあの不思議な音の塊にもやはりすごくブルースを感じる。そういえばマイルス・デイビスの自伝を以前読んでいてとても興味深かったのが、エレクトリック・マイルス期まさに前夜という頃にマイルスが熱心にシカゴ・ブルースのマディ・ウォーターズのライヴに通っていたというエピソードで、マディの音楽のヴォイシングにとても自分は影響を受けたんだというマイルスの言葉に「ふーん、なるほど」と思ったものだ、意味が分かったかは別として。
さてそこで泰三&津上ライヴの話に戻るが、ヴォイシングという部分、特にブルースギターのヴォイシングという部分で、何ヶ月か前に泰三さん自身が自分の日記で書いていた「ブルースギターはえげつない音でなければいけない」という定義、これは興味深いというかすごく分かる。音を聴いて、「かっこいい!」とだけ思うぐらいでは、ある意味ではまだ客観的・傍観的な視点でしかないのかもしれないが、「うわ、えげつない!」とまでいっちゃうと、ほんと音楽に捉えられたというか音楽に自分の心がはいっちゃった感じだ。
泰三さんのギターの音のものすごくダイレクトな感覚というのは、この「えげつなさ」とニュアンスが似た感覚だと思う。そして津上さん、ライヴでは初めて聴くのだが、自身のバンドBOZOや菊地さんのときとは違うなにか泥臭くそして生々しい音を出していた。
ブルースこそ直接的な音楽なんだという安易なことは言いたくないが、こちらを捉えるそのダイレクトな喰らいつきかたに自分が感じるブルースの本質があるのかもしれない。そして、人を捉えるダイレクトな音というのは、妥協して生まれるものではなく、音楽家が常にそれをつきつめているからこそ生まれるものだということは間違いないことだ。