連日この話題でちょっとあれだが、行きと帰りは一昨日買った73年山下洋輔トリオライブ盤をCDウォークマンに入れていた。ファンが個人的に録っていたテープから再現したというこのCDの録音の悪さは衝撃的だ。パーカーのライブ盤とかそのへん聴いてるような感覚におちいる、そのこもり具合、きわめて非クリアな音。だがなぜか、その音の悪さが聴く際のこちらの心理状態に微妙なプラスの影響を与えている。妙にリアル感が出ている。相倉久人著「ジャズからの出発」(73年、音楽之友社)の山下トリオについての記述を昨夜寝る前に読んでいたことも効果的であったといえる。具体的には、1969年夏、当時テレビ東京のディレクターだった田原総一郎が「青春ドキュメンタリー」というドキュメンタリー番組をつくるために、学園闘争中の早稲田大学で山下トリオに演奏をさせるという企画を立て相倉に持ちかけ実際にそれが行なわれたことについての顛末を短く書いた文章なのだが、なかなかおもしろいので簡単に引用したい。

あのエネルギーを闘争中の学生たちにぶつけてみたらおもしろいのではないかといい出したのは、田原総一郎だった。折から早稲田の黒ヘルの連中がジャズを呼びたがっている。そこで、黒ヘルに大隈講堂からピアノをかつぎ出してもらい、民青の占拠する旧四号館の地下へ乗りこんで演奏したらどうだろうというのである。
そこで、ゲバが起これば「絵になる」というドキュメンタリスト特有の「ことあれ」主義が見え見えでいやだったが、あえてその企画にのったのは、それがテレビマンのイベント精神から発したアイディアだったからこそであった。この点を、特に強調しておく必要がある。もとめられればどこへでも出かけて行って演奏するというのが、むろんジャズメンの心意気である。しかし、あえて混乱が予想される場所へ出向いて演奏しなければならないという理由はない。すくなくとも、そこでジャズを演奏することに、積極的な意味を見出せないかぎりは。
我々が幻想レベルでの表現としてのジャズと現実の革命闘争を世界同時平行現象としてとらえる視点を提出して以来、ひとはともすれば、現実と幻想という次元の違いを無視して両者をつき合わせるという、あやまったハプニングを、しかも悪いことにまじめに考えるようになった。〜〜(中略)〜〜だが、テレビ側の期待はまんまと外された。ピアノが無事運びこまれた段階で、学生たちの闘いは単なる可能性としてゲバまで展開することはなく一時的な休止状態に入り、代わってステージに立ったトリオが、受け身の彼らに向かって自分たちの闘い(演奏)を展開して、スケジュールはとどこおりなく終了。現実と幻想という違いが、位相のずれ−時差−というかたちであらわれたわけである。

今夜僕が聴いている作品は73年の山下トリオの記録だ。それはメンバーに坂田明が加わった第二期であるから、69年第一期山下トリオの演奏について書かれたここでの相倉の文章に、このCDの音を重ね合わせるというのはちょっと卑怯というか、正しくはないわけだが、ここではちょっとそれについては目をつぶる。
観念的だったゆえに衰退していき、なによりスローガンや行動の記録をいま見るとまったくもって寒く風化しきっている当時の学生運動と、いまだにとてつもないエネルギーを聴き手に注ぎ込む山下トリオの当時の演奏。両者の違いはなんだろうか?それはこのCDを聴けばすぐにわかる。
本来であれば音楽は音楽としてどこがどう優れているかということを具体的に分析しなければいけないのだが(そうしなければ当時の田原なんかと同じだもんな)、そのための知識を僕は持ち合わせていないのであえて抽象的に言うと、この30年前のジャズを今聴いても感動できるのは、彼らの「闘い」に圧倒的な普遍性があるからだ。「闘い」とは音楽家が自己表現をなしとげようとするための闘いであり、そこにおいて一時的にでもつくりあげられた世界、それにたどりつくまでの経過においての彼らの意志と実践を感覚的に目の当たりにすることで、我々聴き手は自らの生き方を鋭く問われる。つまり自分がおこなうべき「闘い」との接点すなわち普遍性をそこに発見し、感化されるのだ。