リンク元を見ると、“ジャズ構造改革”で検索してきた方が多くて、へえやっぱり話題になってるのかねと感心したりもするのだが、僕のスタンスを述べれば、あの本の主張の大半には同意・賛成できる。暴論でもなんでもない。相当に正論が語られていると思う。
 もっとも、読者のリアクション的にどうも、“サイトやブログでの文章の有効性”や“ネットでの言論の責任”・“プロの評論と素人の評論の差異”とかそういう音楽とは離れた方向に話が集中しすぎているのが、はっきり言ってうっとおしい。
ジャズ構造改革 ~熱血トリオ座談会
 ジャズの批評という視点でいえば、いくつかの点で3人の対談の内容に違和感を感じた。
 まずこのあいだも書いた日本のジャズの評価について。あえてもう一度強調するが、この3人ぐらいジャズを真面目に聴いてる人たちでも、基本的には日本のジャズを軽視している傾向にあるのが、残念。例えば、その中でもまだ日本ジャズをちゃんと聴いて正当に評価しようとしている村井氏でさえも「竹内直や川嶋哲郎の実力はニューヨークの若手、いやもしかしたら中堅ぐらいのレベルはあるかも」云々というリアリティを欠いた発言をしちゃっている。いやあそんなレベル低いか?竹内や川嶋。文脈的には日本ジャズをフォローしようとしての氏の発言だったのだが、そもそもそういう比較の仕方の意味が分からんし。
 それともうひとつ、現在のクラブミュージックやロックを尖がった表現として受け入れている若い音楽ファンをどうジャズの本筋に向かわせるか・引き入れるか?その部分のプロとしての突っ込み・見解がもっと聞きたかった。かなり重要なテーマだと思うが、この対談では諦念のニュアンスが強いように思えた。それこそ菊地成孔なんかの方が説得力あるかたちでそれを実践しているのでは。菊地があれだけ支持・共感を集めているのは、イメージづくりの巧さという部分ももちろんあるけれど、潜在的にジャズを求めていながらも他フィールドにいるまじめな音楽ファンをジャズの方に向かせようと、極めて意識的なやりかたで奉仕しているからだ。その真摯な姿勢と熱さが、彼の発信する言葉の魅力につながっているのだと思う。
 マイルスだ、ブルーノートだ、コルトレーンだ、エヴァンスだと、毎回毎回同じものを取り上げる行為が、一方では価値観の硬直を生み出している側面があると自分は思う。あ、でも、寺島靖国周辺とかスウィングジャーナルが薦める新譜はたいていつまらないけど。