敷居が低いところで書くジャズについての文章

 仕事は9時過ぎまで。
 ipodハンニバル・マーヴィン・ピーターソン「ハンニバル・イン・ベルリン」とオリヴァー・ネルソン「Swiss Suite」を聴いての通勤&帰宅。前者でのハンニバルとジョージ・アダムス、後者でのガトー・バルビエリ。最高だ。ジャズの下世話な芸術性を体現している彼らの強烈でいっちゃってる吹きっぷりを聴いていると、こちらは放心状態になって、頭の中のゴチャゴチャしたものが洗い流される感じ。明日もがんばろう。
 家に帰ってテレビを見る。メール問題の謝罪がどうだとか、二大政党の茶番くさいクソ芝居が垂れ流されているなかで、衆院では2006年度予算案があっさりと可決されてしまった。あれだけやばいやばいと騒がれていたはずの耐震偽装もBSEもライブドアも結局なかったことにされてしまうのだろうか。税金も年金保険料も来年度から確実に上がるってのに、生活保護を受けている世帯が100万世帯になった(やばいよな)っていうのに、いまだに「改革を止めるな」という念仏を唱えさせられている国民のその敬虔な精神に、いらついてしょうがない。
 改革といえば、「ジャズ構造改革 ~熱血トリオ座談会」という本を最近読んだ。後藤雅洋中山康樹村井康司という著名なジャズ関係者による対談本。
 四谷いーぐるのHP掲示板をいつもチェックしてるような(自分のような)偏ったジャズファンでなければ、はっきり言って何を語っているのか分からないと言われてもしかたがないマイナーな固有名詞(個人の実名含む)がけっこう出てくる。そしてときにはそれらが(その人たちが)名指しで批判されたりしている。これぐらい具体的で濃いものを提示しなければ現状を変えることはできないのだ、という3人の意志が表れているとも言えるだろうか。もっとも内容的には、例えば業界暴露本的なやばいことを話してるのかといったら実際はそうでもなく、ジャズをまじめに聴いてきた世代の人たちの実感が本音で話されているという雰囲気の本。
 若い世代でのジャズ(音楽)の受けいれられかたへの違和感や、ジャズの新譜がつまらないってことや、現在進行形でのジャズの主流がいまやなくなっていること、そのあたりの指摘は、彼ら3人とは世代が離れた自分にも、非常に頷けた。
 しかし、なんだかズレを感じる部分もあった。例えば、ネット上で素人が書いたジャズ評論(めいたもの?)・ジャズについて書かれた文章に対する批判。中山氏曰く「世間に揉まれていないから説得力がない」、「仮想空間でしか通用しない文章」、「ハードルが低い」。自分のこのブログもただ駄文を連ねている自己満足な内容なわけで、そういう点ではプロである中山氏の指摘するところに相当該当してしまうわけだが、まあ別にそのことに腹を立てているわけでは全然ない。
 (以下、きわめて常識で「何今さらそんなこと強調してるの」という内容。)
 ジャズファンになって数年の自分の実感としてだが、やはりネットは情報収集機能として手っ取り早いし、ものすごく役に立つ。例えば、ハンニバル・マーヴィン・ピーターソンなんて今はあまり知る人のいないミュージシャンについての情報を得ようとした場合、どうやったらいいだろう?ジャズ喫茶に通ってそこのおやじか常連のジャズマニアに聞けばいい?それはそれでひとつの有効な方法かもしれないが、社会人として働く中で、そうそうジャズ喫茶通いなんてできないよな。ましてそこのマスターや常連さんと打ち解けるなんて、それこそ一定のハードルの高さがあるわけで。じゃあCDショップ?タワレコやHMVのジャズの品揃えを見てると、店員に聞いてもすぐに答えが返ってきそうだとはとうてい思えない。(ユニオンや専門店などの若干の例外はあるが。)そう考えると、断然にネットで検索するほうが効率がいいし、自分のペースで調べられる。比較的容易に、情報と情報を持ってる人(たち)と出会える。で、アマゾンで探せば、そのまま買えたりする。
 目標の獲得に至るまでのプロセスが格段に短くなったこと、特別な業界にいなくても得ることができる情報量が大幅に増えたこと、インターネットがつくりだしたこういう新しい基本的条件は、逆にジャズ評論家に求められるハードルを今までよりかなり高いものにしてると僕は思う。素人だって大した時間と費用をかけなくても情報を持てるんだよ、情報を持ってるのが当たり前なんだよというレベルに世の中がなってきているのだ。
 「スウィング・ジャーナル」や「ジャズ批評」や「ジャズライフ」なんかで別に書いてなくても、あるいは他の紙媒体で書いてなくても、要は「プロ」じゃなくても、耳のいい人はいっぱいいて、そういう人とネットで出会ってそのお薦めを聴いて「これいい!」と思うケースなんて多々ある。例えば個人的に最近では、この日記の冒頭で書いた「Swiss Suite」はもろそういう盤。ネットの言論のレベルを過小評価すべきではない。むしろ、マイルスだコルトレーンだパーカーだ、ブルーノートエヴァンスだなんてプロの評論家から毎回毎回言われるほうが、食傷気味になるってもんで。
 ただ、“「聴く」という行為でしかジャズの基礎体力を養えない”という後藤さんの考えには同感で、ネット界隈によくいらっしゃるサブカル経由の「ジャズ好き」な方に足りないのはずばりそこだと最近思ったりする。情報処理能力に長けて、それらしく雰囲気的なことを書けたって(文章もそこそこ読ませたって)、実際聴きこんでいるかそうでないかはすぐ分かる。いや、これはジャズに限った話ではないか。
 愚直に自分なりに試行錯誤をしながらジャズ(音楽)を聴き続けている人が僕は好きだ。たとえ顔の見えないネットの世界だって、そういう匂いのある人とはなんだかつながっていくもんだな、関係は続いていくもんだよな結果としては、とこれまた最近思ったりもする。