喫茶店での音楽的妄想

 有休。午前中はほぼ寝ていた。夜の諸々の話し合いのために、自分の考えを整理しようと駅前の喫茶店でメモをとったりする。しかし、集中しきれずついつい音楽のことに頭が行く。俺はほんとだめだ。
 ジャズ批評の古本を読んでいたなかで、非常に刺激を受けた一文↓

 末期は無調の中に生きたコルトレーンであったが、彼のフリー・プレイはすこしも難解ではない。むしろ素朴である。晩年のコルトレーンにはR&B的要素が目立つようになったというブライアン・プリーストリーの指摘もうなずける。
(ジャズ批評71号・P83・原田和典氏のレビューより)


 例えば形式的にはそれこそ「R&B的」なソウル・ジャズやファンキー・ジャズとは趣きが全く違うということは歴然としてるのに、晩年コルトレーンの音楽にR&B的要素を感じるというニュアンス、よく分かる。音楽的にどの部分がというより、なんだろう全体的な雰囲気や感触がそうだ。ジャズ的黒さ・熱さに満ち満ちているというか。同時期のオーネットもそうなのかな。
 理論的に分析ができないがつまりリズムということなのだろうか。ジャズと現代音楽の音楽観・アプローチの根本的・決定的な違い、なんかそういうものとも、ものすごく関わっているような話かもしれない。
 コルトレーンやファラオやトニー・マラビーや林栄一が吹く急進的でフリーなブロウやフリーク・トーン、それらを聴くとき対応しているのは自分に身についているジャズ耳だと思う。感覚的な言い方だが、そこに関しては何だか確信がある。で、ノイズ系とか音響派好きの人がよく自称するいわゆる「音フェチ」的な聴き方には、正直あまり馴染めない。やはり大きな意味でのリズムをまず聴いているのかなと思う、自分は。黒人音楽(ジャズはもちろん、ロックもテクノもそこが根っこ)的な耳・感覚というか何というか。
 こういったことを書いていると、僕は大した知識もないくせに、ジャンル分けとか境界をつくるとかそういうのが好きな人間なんだなと、なんかあらためて思う。