ジャズを巡るウダウダ

 雑誌「ジャズ批評」の最新号で吉祥寺メグの寺島御大が、「全く売れもしないトンガリ系やフリージャズを“これこそが本物のジャズだ”と絶賛しているジャズ批評のライターはズレている、馬鹿だ。」という内容のことを書いていた。

 寺島さん曰くCDショップ・ジャズコーナーの売り上げの60%は4ビートものやスタンダードものだということで、本当にジャズの状況を盛り上げようと思っているなら、ジャズのCDを売ろうと思っているなら、ジャズ雑誌が取り上げるべきものは「トンガリ系やフリージャズ」ではなく、そういう「60%のジャズ」なんだよと、いつもの寺島的論調。おそらく後藤雅洋さん辺りが、次の「ジャズ批評」誌で反論してくるんだろうが、もうどうでもいいっちゃどうでもいいな。

 それこそジャズ・シーンを盛り上げようとしてるのか、あえて突っ込み覚悟の分かりやすい暴論めいたものを書き散らしている寺島さんのその思いや行為はまあおもしろいが、そもそも寺島さんの推薦する盤に今まで食指がほとんど動いたことないからなあ、個人的には。かと言って、今回の「ジャズ批評」トランペット特集で取り上げられていた盤、「Ko Ko Ko Ke」以外一枚も持ってなかったしなあ。どっちでもいいや、ほんと。「ジャズ批評」VS「寺島靖国」、と言うよりは、お約束の「四谷派」VS「吉祥寺派」のおもしろい読み物として、楽しんで付き合っていきたい。

 ところで、後藤雅洋の著書をルーツとして持つ自分はどちらかと言えば四谷派支持層に属しているのかなあと思っていたが、最近それもどんなもんかなあと省みたりもする。
 後藤さん的な聴き方、例えばハードバップを入門としてそこでジャズの基礎体力をつけて、という聴き方って意外に硬直的な耳を持つファンを作り出していない?例えばブルーノート1500番台や4000番台を絶対化しちゃうような。と書いていて、それって俺のことかなと思えてきたのはまあ置いといて、少なくとも現在進行のジャズと繋がる聴き方を後藤さんが提示しているかと言ったら、かなり微妙だと思う。皮相な見方かもしれないが、それは過去の名盤の再発で稼ぐおやじジャズ商法に意外に沿っているスタンスというか。

 もっとも「現在進行のジャズ」なんて抽象的なものがあるのかも分からないし、そこに繋がる必要があるかも分からないが。